スピンオフのさらにスピンオフ 「【書き物】「旅立ちの日~the King side~」 — Tanakamp的ヒトコト。」を連れ合いが読んで

【書き物】「旅立ちの日~the King side~」


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所持金と装備 …

「そなたは、この国の希望じゃ。そなたが背負った使命は大きい。見事魔王を打ち倒してみせよ」

若い王はそう言って、この国が持っている財力からみれば、なくなったところで痛くもかゆくもない程度の金と装備を「勇者」に渡した。

「勇者」が城を去ったあと、若い王は大臣を呼び出し、耳打ちした。

「やっとこの時がきた。私はようやく解放されるのだ。」大臣が下がったあと、王はそうつぶやいた。

あいつはこの国にいてもらってはこまる。消えてもらわないとこまる。

「勇者」には旅に出てもらい、道半ばで死んでもらう。それが本当の目的だった。

若い王にとって「魔王」はすなわち「勇者」であったのだ。

若い王の思惑通り、勇者は魔王を倒すための徹底的な情報収集を始めた。その情報はすべてこちらが準備したものであった。「勇者」が怪しまないように、細心の注意をはらって、情報を小出しにするよう下々の者達に命じた。

唯一、若い王の思惑通りにいかなかったことがある。「勇者」が旅に出なかったのである。

若い王は後悔した。「情報を与えすぎた。」

そして若い王は国の中に「魔王」がいるという心労・プレッシャーを抱え続け、「勇者」が生涯を終えるよりもずっと早くに死んだ。

引用記事は、私のショート・ショートのスピンオフのお話。

で、それを読んでうちの連れ合い(@rashita0905)がインスパイアされて書いたお話が以下。

旅立ちの日 大臣編

「王様、何やら不吉な気配が漂っております。」
おもむろに占い師はそう言った。
「この国で今年成人する者の中に、魔の存在がいるに違いありませぬ。」

王様は愕然とした。
先代の王が急に亡くなって、心構えもないうちに無理やり王の座に据えられてしまってから、まだ半年しかたたない。
(だから嫌だったんだ…。)
若い王は心の中でそう思った。
「それはどの者か分かっておるのか?」

「いえ…。しかし、湖の方角から怪しい気配が…。」
占い師は言葉をつまらせながらそう言った。

「そこまでわかれば十分だ。大臣、あとは頼んだぞ。」
若い王は急いで謁見の間を出て行った。

「上手くいきましたな。」大臣は占い師にむかって言った。
「息子さえいなくなれば、あとは…。ふっふっふっ。」

そう、大臣は勇者の母親のことが好きだったのだ。

「しかし、王様にバレたりしないでしょうか。」
占い師は少しビビっていた。

「なあに、あの坊っちゃんは若い娘の尻を追いかけるのに忙しそうだからな~。はっはっはっ。」

そして大臣の思惑通りに事は進み、王様は勇者を呼び出し、勇者は旅に出た。

…はずだった。 勇者は末長く母親と仲良く暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。

現実感ということについて→「【雑感】「なりたいもの」「就きたい職業」その先のライフスタイルは? | Find the meaning of my life.」を読んで

何かに怯えているようにも見えます。もし就社できなかったら・・・何に恐怖を感じているのでしょう?別に人生が「閉店ガラガラ」となるわけでもないでしょうに。23歳や24歳くらいの若者なら、成功するかはわかりませんが、何をやったって(借金が無ければ)最低限食べて行くことくらいできそうに感じますし、可能性は沢山沢山ありそうなのに。

何かに怯えている、恐怖感を感じている、そういう感覚は私も感じます。

その恐怖心が「正当」なものであるかどうかは、今は問題にしません。確かに、就社できなくても、食いっぱぐれることはありません。私も今に至るまで「就職活動」というのを(ほとんど)やったことがありません。それでも、(夫婦共働きとは言え)なんとか生きています。

でも、それは私にとっての「現実」です。

何かに怯えている(かのように感じられる)人たちの「現実」ではありません。

おそらく、生きてきた過程の中で、あまりにも「マニュアル」が多かったのではないか、そんな気がします。ゲームにしろ学校の勉強にしろ、「誰かが整えた道をあるていく」ということがほとんどだったはずです。

そういう環境に慣れ親しんでいれば、「何をやっても良い」という自由は、開放感よりも、むしろ不安定感の方が強くなるのではないでしょうか。

それに、会社勤めしていない苦労している人達がテレビで取り上げられ、会社つとめしている大人も、必死にそこにしがみつこうとしている。

ロールモデルとして、「新卒で会社員にならなくても、まぁ生きていけるよ」と気楽に提示する人がきっとまわりに少ないんじゃないだろうか、そんな気がします。あくまで気がするだけですが。

基本的に、その人の「現実」の認識が、その行動を生み出します。

ある人から見たら真っ平らな地面が、別の人から見たら、高層ビルの上に敷かれた細い鉄筋として「認識」されることもあり得ます。

こういうのは「正しい」とか「間違っている」ということではなくて、どのような「認識」をその人が持っているのか、そしてそれをどう変化させるのか、ということに注力しなければいけません。

情報化社会と言われていますが、それが必ずしも「自由」につながっているわけではないのかもしれません。

情報がクラスタ化して、固定的な「現実感覚」が強まっている傾向もあるでしょう。そういう壁はなかなか乗り越えにくいものです。

敷居を超える、分野をつなぐ、何かしらそういう発信が必要なんだろうな、と思う今日この頃です。

ちょっとツッコミ的な →「【落書き】人が目標に到達するための5要素 | 想造ノート」を読んで

レールとルールとロールとツールとゴールSun Oct 16 13:44:36 via Tweetbot for iPhone

 

というのをツイートして、ふと「これってもしかして人が目標に到達するための重要な要素なんじゃないかな…?」と思い、ちょっと落書きしてました。

で、出来たイラストがこちら。

ここまで考えたら、次はどのように配置するかを考えたいところ。

つまり、順番であったり、実際にどのようにそれを作るのか設定するのか、というはなし。これらが全て同じレイヤーに並ぶのか、それとも上下関係があるのかははっきりさせておきたいところ。

個人的には、

・ロール
・ルール
・ツール

の3つがあれば十分かなと考えている。ちなみにこれは編集者の松岡正剛氏が『知の編集術』で上げられているのとまったく重なる。

「目標に到達するため」なのだから、ゴールがあるのは当然なので、とりあえずは書かない。あと、ルールとロールが定まれば、ルールは自ずと導かれるので、それもあえては入れない。副産物的に出来るものだから。

でもまあ、とりあえずはドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読めば良いんじゃないかと思う。大切なことはだいたい書いてある。 

コンテンツ的には、5つの要素を汎用化できるならば、一つのまとまったコンテンツにできるかもしれない。仕事や生活において、この5つがどのように役立つのか、という切り口で。

まあ、ちょっと思い付いたから書いてみただけ。

答えてみた 「どんな体勢でノートを取っていますか? - めざせ!へなちょこ脱出」を読んで

[]どんな体勢でノートを取っていますか?Add Star

自分のアイデア・思考をノートに書き留めることを実践されている方に質問です。

  1. 普段、どんな体勢でメモを取っていますか?
  2. そのときどんなノートを使っていますか?
  3. メモを取るときに困っていることはありますか?

1&2.普段は歩いている時、机の上、PC作業中の3つが多いですね。
胸ポケットにはメモ帳、ズボンのポケットにはiPhoneが忍ばせてあるので、メモできるものは常に存在しています。
ある程度厚みのあるメモ帳だと、歩きながらでもへちゃらです。もちろん、iPhoneでも(さすがに立ち止まりますが)。

3.頭に思い浮かんだ物が100%抽出できない、というのが困っている点でしょうか。脳内のイメージをそのままメモに転写できる新技術が生まれれば困ることはなくなるでしょうね。でもって、そのメモがクラウドに繋がっていると、攻殻機動隊の世界が出来上がります。が、まあ当面は大きな問題は感じていません。

あんまり関係ないけども 「【文章術】”絵”と”文章”を見比べて見えてくる文章上達法 | 旅するBusidea」を読んで

この違いは何だろう。鬼気迫る絵描きさんと、のほほんとして基本ばっかり大切にする文章書きのあいだには、どんな差があるんだろうと考えた。

それで、ひとつ思いついたのは、『習熟度の違いが一目見て判然としているかどうか』の違いじゃないかということ。

言いたいことは非常にわかるが、比較対象のバランスが悪い気がする。

文章を書く人でも鬼気迫り、頭を抱え、どこにも持って行きようがない絶望感を持っている人はすくなからずいる。それは当然、真剣に文章を書いている人達だ。真剣に文章が持つ可能性を追求している人達だ。
※そういう人達がすべて苦悩している、というわけではない。

習熟度の違いが一目見て分からないからこそ、真剣に文章を書く人はより大きな苦悩を抱えることになる。

ちょっと、想像してみよう。毎年毎年新人賞に応募して、微妙な所で受賞できないとする。寸評は良い。でも何かが足りないと言われる。で、「何か」って一体何なのか。自分の書いた文章と、新人賞を受賞した人の文章、の一体何が違うのだ、と。

こういった苦悩は、どうしてもつきまとう。それに表現活動に人生をかけようとするひとは、たいてい心に「穴」を抱えているから、その苦悩が持つ深さはより深刻だ。自殺した文学者と画家、果たしてどちらの数が多いだろうか。

あと、もう一点「初心者がかいてもいいこと言える文章」とあるが、平均的な日本人は(すばらしい教育制度のおかけで)日本語の初心者ではない。文字を左から右に書けばよい、ということもしっているし、文法も習うし、どんな言葉があるかも、どういう風に言葉を「並べ」ればよいのかも知っている。基本はばっちりできているのだ。それに対して、イラストは小中学ぐらいの授業でしか接する機会がない。大抵の人は初心者と言える。

もしも、私たちがイラストでコミュニケーションを取り、言語は芸術の時間にしか習わないという生物だとしたら、状況は大きく変わっているだろう。

行為としての本質は似ているかもしれないが、現状のスタートラインが二つの行為で違っているので、その点を加味した上で考察すべきなのではないか、と思う。

で、結局このエントリーは何が言いたいのかというと、特にはない。ただ、一応ここにも文章を書く人がいて、その人は全然余裕なんかなくて、ちょっと足を踏み外すと鬼気迫る方に落っこちかねないよ、ということは書いておこう。

ほんとに、難しいんだよ。これが。

【ショート・ショート】ライオネル立地

「新店の候補地は見つかったのかね?」
入ってくるなり、いかつい顔をこちらにむける部長。昨日の麻雀接待で手痛い目にあったのだろう。誰かに文句を付けないと気が済まないという目をしている。
「えぇ、すでに三カ所にまで候補地は絞り込んでいます」
「なかなか手早いじゃないか。資料は?」
引き出しからフォルダを取り出し、クリップで閉じてある資料を手渡すと、部長はそれをしげしげと眺める。
「たしかに立地は良いようだが、どうも賃料が高いようだね」
「そうなんです。お渡しした資料の一件目と二件目は好条件なんですが、賃料が高くて決断しにくい状況です。どうも、地主が他との交渉も並行で進めているようで」
「それはやっかいだな。土壇場でひっくり返される恐れもある。この三つ目の物件はどうなんだね?ライオネル立地の」
「こちらは、初回に多少の手入れは必要ですが、トータルで見ると賃料は安いのではないかと思います。今後ライオネル立地の需要が高まっていくことを想定すると、我が社の利益になる部分も大きいかと」
やれやれ、と部長はため息をついた。どうやらイライラは消えてなくなったらしい。その代わり別の感情が浮かび上がってきたようだ。
「たしかに、上の方からもライオネル立地の状況をよく聞かれるんだ。経営陣のお歴々は名前は知っているけども、その実体があんまり分かっていないらしい。でも、大手がこれからはライオネル立地ですよ、なんていうとそれを鵜呑みにしちまう」
「まあ、今後の情勢次第ではまったく価値がなくなる可能性もありますからね。しかし、取締役会に納得させられるという点では、この物件もなかなかのものでしょう」
「そうだな、今回は君の判断にまかせるよ。実を言うと私もライオネル立地はあまり詳しくないんだ。私も若い頃には、ニコール立地やらデニス立地やらで荒稼ぎしたもんだがだ、もうそれも懐かしい昔話ってところかな」
部長の肩がどんどんと落ち込んでいる。このままだと、部署内にネガティブな空気が蔓延しそうだ。
「ぜひ、その時の話を聞かせてくださいよ」
僕がそう言うと、部長の瞳に光が戻ってきた。
「おっ、そうか。今では夢みたいな話だが土地を右から左へ流すだけで億の金が転がり込んできたもんだ。そういうのにはコツがあるんだよ。タイミングと機運を見極めるには・・・」
部長の楽しげな自慢話に耳を傾けながら、あのライオネル立地をできるだけ低価格で押さえるための算段を僕はじっくりと立てていた。過去は過去、今は今だ。

No Borderの第五回のお題についてちょっと考えてみた

「No Border」という面白いブログがあります。一つのお題に複数のブロガーがエントリーを上げるというもの。

その第5回のお題が「これからの日本を良くするために、ブロガーでこそ出来る事を提案してください。」でした。

これは、なかなか奥深い質問です。すくなくともちょっと考えてみたくなる質問です。
※回答エントリーはこの辺から見ることができます。

で、考えてみました。

こうした問題に取り組む第一歩は、定義をはっきりさせること。このお題の場合は、「これからの日本を良くする」とは、いったいどういうことを指すのか、を明確にしなければいけません。

安心して暮らせる国?誇れる国?美しい国?

抽象的すぎます。

誰しもが老後について思い悩むことがない国?失業率が3%以下?投票率が90%以上?人口が増え続ける?GDPが毎年5%の成長?

一体、どれが成し遂げられれば「良くなった」と言えるでしょうか。実際のところ、これが一番難しい問題です。

日常的にさまざま取り上げられている「問題」は表面的な問題でしかありません。一人の総理大臣を無能扱いして、首をすげ替えても状況がほとんど変わらないのと同じことです。問題は根深く、それをはっきり見据えることはできません。だから、解決方法も見えてきません。

そういう時には、手近な(あるいは安易な)解決方法にすがりたくなります。それも、「自分がまったく責任を負わなくてすむ」解決方法であればなおさら魅力的に見えます。

真剣にこの問題を論じれば、戦後の日本から高度経済成長、そして今の日本に至るまでの経緯に触れる必要がありそうです。つまり、1956年の経済白書に出てきた「もはや戦後ではない」を再検討する必要があるということです。実際のところ、あの戦争はまったく総括されていないというのが本当のところでしょう。そしてそのおかげで、戦前の日本と今の日本が断絶していると言っても良い状況を生んでいます。こんな状況で「市民国家」が機能するはずがありません。

日本国の主権は国民にあります。日本国憲法にそう規定されています。しかし、国の行方を左右しかねない国会議員の選挙における投票率は驚くほど低い状況です。2005年の9月11日に行われた郵政民営化が論点となったあの選挙。小泉元首相に注目が集まり、自民党は大きく議席を伸ばしました。その時の投票率ですら60%の後半。最近では50%になる選挙もあります。

1890年に行われた第一回総選挙では投票率は93.91%。この選挙における選挙権は税金を15円以上を納めている25歳以上の男性に限定されていました。いわゆる普通選挙ではないので、現状と対比してもあまり意味がないかもしれません。その後は80%後半から90%で推移しています。

それがはっきりと落ち始める傾向を見せるのが1946年に行われた第22回の総選挙。戦後に行われたはじめての総選挙です。この時は20歳以上の男女全てに投票権がありました。投票率は72.08%。今とほとんど同じ水準です。それ以降似た数字を繰り返しながら、徐々に投票率の平均値は下がっていっています。

これは急激に普通選挙に代わり、今まで投票に行ったことのない女性が投票権を得たことで、投票率が下がったという見方もできます。でも、なぜ女性が投票に行かなかったのでしょうか。別に投票に行かなかったのは女性だけではないでしょう。なぜ、その人達は投票にいなかったのでしょうか。あるいは、なぜ周りの人達はそういう人に投票言った方が良いと言わなかったのでしょうか。またはその人達の親は何かを言わなかったのでしょうか。

投票率の低下というのは、あくまで表面的な結果でしかありません。例えば、献血のように投票に行けばジュースがもらえるというような「特典」を付ければ、投票率は上がるかもしれません。あるいは、投票に行かないことに罰則規定を設けることでも良いでしょう。どちらにしても、単純に数字を改善することはできます。でも、本質的な部分はきっと変わらないでしょう。

ようは、この国はこの国の国民によって運営されていないのです。でも、憲法上はそうすることが定められています。ようはオーナー不在のお店と同じことです。そんな状況で、お店が効果的な数字を上げたとしたらもはや奇跡と言って良いでしょう。オーナーが不在であれば、店長はお店のお金を好き勝手にいじるかもしれません。従業員のモチベーションも上がらないでしょう。

そういう時に、その店長の首を変えても、あるいはスタッフを入れかえても、本質は変わりません。また別の店長が出てきてその人が好き勝手にやるようになるだけです。あるいは、新しく入ったスタッフもやがてモチベーションをさげていくことでしょう。なにせ責任を持つべき人、管理する人が不在なのですから、それは仕方のないことです。

もちろん、正確な意味においてオーナーが完璧に不在というわけではありません。一応50%の投票率は存在しています。でも、その50%も自身の判断に基づいた一票だったのかはきちんと考慮する必要があるでしょう。受け売り、あるいは組織的圧力の元で投下された一票ではなかったのか、きちんと考える必要があります。

もし「考えられ、託された一票」でなければ、責任がまっとうされているとは言えないでしょう。つまり、営業日の半分ぐらいに顔を出すオーナーが出す指示は、どこかの適当なセミナーで仕入れてきた付け焼き刃の指示だったとしたら、どうでしょうか、というのと同じ事です。それが主体的に運営されていると言えるでしょうか。

国際的な背景、この国の進む方向、金銭的問題、外国人労働者の問題、移民の問題。

政治家はそれぞれに対して何かしらの政策を打ち立てます。法律上の問題は、素人の私たちには扱えません。官僚に支持して回るほど暇でもありません。だから、それを専門とする政治家というのが存在するわけです。しかし、その政策が自分たちの国にとってどういう意味を持つのかを判断するのは国民です。その判断は主権を持つ存在としての義務です。

国民に主権があるということは、私たちは1億何千万分の1の「国王」ということです。国王は、大臣の話をウンウンと聞いていれば成立する立場ではありません。決断を下し、その責任を自分で引き受けなければなりません。何かを選択するためには、それができるだけの情報と判断力を持つ必要があります。

戦後、冷戦構造のおかげでぬくぬくと経済成長してこれたほとんどパラダイスとも呼べる日本において、本当に奇跡的に国民はそういうことを考えずにいることができました。立地に恵まれすぎて、オーナーが店に来なくても、店長が多少ちょろまかしても、スタッフが適当に仕事をしていても、オーナーの収入が発生していた、というのと同じ構造です。

でも、楽園はいつか幕と落とします。残されたのは、責任を持つ必要があるという自覚のないオーナーと、不正をやることが仕事になった店長と、士気が上がらないスタッフ、という状況です。本当に幸いなことに、そのスタッフの中にはベテランで技術が高い人が数人混じっています。だから、現状なんとなかっている状況です。でも、それも限界がやってくるでしょう。

「私たちが国からしてもらうことではなく、私たちが国に出来ることを考える」という言葉があります。でも、私たちが国なのです。国家というのは国民を含んで存在しています。それは排他的なものではなくて、同一の存在です。国家の中に、国民と政府というものが存在しているということです。それをわざわざ分けて考える必要はありません。

自分たちについて考えるということ、それが国について考えるということと同値です。

今、少しずつそうやって自分で頭を使って、何かを考えている人が増えてきていると思います。そうしなければならないのは、本当は当たり前の事です。もし、考えたくなければ、国民投票でもやって主権を別の所に移動させる必要があります。そうして、「お上」の言うことに絶対的に従っていたい、という人が日本の大半を占めているのならば、それはまあそれで仕方ありません。国民を含んでの国という存在なのですから、この国がそういう道行きを辿るならば、受け入れるしかないでしょう。

でも、「いや、ちょっとまて。そろそろ出勤するか」と思う人が増えていくならば、出てくる答えがなんであれ、それはこの国が「良い」方向に向かっていると言ってよいでしょう。

例えば、今から経済立国を再び目指す、でもよいでしょう。あるいは、一流国のテーブルから降りて、余計なことにはお金を使わず、経済の規模を縮小してでも、ぼちぼちやっていく道でもよいでしょう。あるいは、東アジアの連合を作る、という方向でもよいはずです。

どんな方向であれ、それが国民が自分の頭を使って、起きる結果にも責任を背負う覚悟で、出した判断であれば、この国はこの国の道を歩んだことになります。もともと国家なんて物は永続的な存在ではありません。たまたま、長く続いていて、それがあたかもエターナルなものであるかのように錯覚しているだけです。ですから、国家がなくなってしまうことすらも、実はそれほど大きな意味を持っていません。別の国と吸収合併されて、経済規模を維持するという選択ですら、ぜんぜん「あり」だと思います。

国家と国民とはフラクタルな構造を持っているので、同じ事は一人の人間についても言えます。どんな結末を迎えるのであれ、自分ので考えて、自分で出した結論に沿って歩けるかどうか、それが一番重要なことだと思います。逆に、その苦労から逃げ、場当たりの良い答えを他からもらい受けているだけでは、何一つ納得できる人生にはならないでしょう。おそらく、その人には強い閉塞感が生まれるはずです。答えを他人に求めているということは、イコール自分で事態を動かせないと認めているに等しいからです。

閉塞案は周りの環境によって生まれると思われがちです。でも実際は違います。自分で事態と向き合う事を避けたときから、その閉塞感は生まれてきます。「夜と霧」で提示されているようにアウシュビッツという極限的環境に置かれても、閉塞感にとらわれず希望を胸に抱き続けた人がいます。環境そのものではなく、それとどう向き合うか。配られたカードをじっくり長め、どう切っていくか。それを考えるのか、考えないのかの差でしかありません。

ということを考えたうえで、「これからの日本を良くするために、ブロガーでこそ出来る事を提案してください。」というお題に戻ります。

それはやはり、他人に答えを示すというのではなく、問題を提示し、それと自分が向き合う姿勢を他の人に示すということでしょう。決して安易に他の誰かの人の責任を声高に主張して、あざ笑い、時に罵倒するような姿勢を見せずに、自分自身の問題と自分がどう向き合うのか、どう考えればよいのか、どう判断すれば良いのか、というのを他の人に開示するというのがブロガーでこそできることではないかと思います。

残念ながら、これは義務教育では教えてもらえないことです。多くの親も教えてくれないでしょう。綴じ気味なSNSでこんなことを書いたら煙たがられるだけです。

でも、ブログならできます。もちろん、書くことで嫌な反応をもらう事があるかもしれません。でも、何かが伝わるかもしれません。

そこで伝わるものは、「この問題に対してはこういう解決方法が良くて、これは間違っている」という情報ではありません。僕はこう考えたけど、あなたはどう考える?という一つの問題提示です。それがなければ、結局根本的なレベルでは何もかわりません。答えをもらう人が専門家からブロガーに変わっただけです。

自分の頭で考え、自分の責任において判断を下す、というプロセスこそが、もっとも大切なことです。

なので、このような一つのお題に複数のブロガーが回答するというのは非常に面白い試みです。一つ一つの答えが相対化されるこで、「じゃあ、結局何が(自分にとって)正しいのか」を考えざるを得ないからです。そういう意味では、このNo Borderという取り組みは、一つのモデルになるかもしれません。

といったところで、このお題についてはここまでにしておきます。といっても、ここまで読んだ人はほとんどいないでしょうが。

タスクの塩漬け Twitter / @sawonya: 「タスクを塩漬けにする」って、なんかタスクが美味しそ ...

やまもとさをん

「タスクを塩漬けにする」って、なんかタスクが美味しそうにじっくり味が染みこんでいきそうだ。でも本当はタスク塩漬けにするってのはいいこっちゃないんだろうけど。

基本的に「塩漬け」のネガティブなイメージは株式用語から来てますね。

”株価が値下がりし、損失を抱えたまま長期間保有しつづけている状態のこと。”

きっちり損切りできずに、塩漬けを抱えているひとは、だいたい相場で勝てません。
※これにはきちんとした理由がありますが、今回は割愛。

でも、一般的には「塩漬け」は付加価値を付ける行為ですね。味に深みを与えると共に、長期保存できる効果もあります。

むしろ「長期保存」が目的で塩に漬けはじめたというのが発端でしょう。

これをタスクに置き換えてみましょう。タスクの存在意義は、処理されることです。これは、食べ物の存在意義は食べられることだ、というのに似ています。

本来やるべきタスクを先送りしてしまうのはあまりよくない行為でしょう。これは正確な意味で「塩漬け」にはなっていないのかもしれません。

きっちりと管理されている塩漬けはそのものの価値を増やしていきますが、単に置きっぱなしになっているものは、価値を増やすどころか徐々に腐らせていくようなものです。

タスクを腐らせるとは、放置し続ける事でさらにやるのが面倒に感じられる状態を作ってしまったり、そもそも「やっても手遅れ」という状態を作り出すことでしょう。それは避けなければいけません。

しかし、必要な時に、さっと取り出して、きちんと「元の状態」が保存されているならば、それは喜ぶべき状態でしょう。「元の状態」とは、単にタスクの名前だけではなく、なぜそれをするのか、というコンテキストを含んだ情報です。それは時間と共に劣化していくものなので、なにかで保護する必要があります。

塩漬けの場合は塩の殺菌作用がその役割を果たすわけですが、タスクの場合は何になるでしょうか。たぶん紙(その他ツール)にコンテキストを記録しておく、ということになるでしょう。こういう保存は__さっと取り出して食べられるような__適切な「塩漬け」と呼べそうです。

また、今すぐには取りかかれないような「目標」もあるでしょう。

それは、行動を起こすためのアイデアを一つ一つ集めていって、計画に結びつける必要があります。そういう風に、何かを膨らませていく行為、こういうのも「塩漬け」と呼べるのかもしれません。

そういう気を遣わない先送りは、全て放置して、タスクを腐敗させていくだけ、というのはちょっと言い過ぎかもしれませんが、だいたいはそんな感じではないでしょうか。

▼こんなエントリーも:
あなたの目標、「塩漬け」にしていませんか? (R-style)
http://rashita.net/blog/?p=3472

自分なりに考えた 「シゴタノ! —    BT041:ブログを書く目的は自分で決めよう」を読んで

ブログのファンの方にしか買われない本を出し続けて、作家として生きていくのは極めて難しいのです。作家が積極的にブログを更新しないのは、極めて自然なことです。

ここ3週間ほど、このことについて考え続けました。

余人はいざ知らず、「佐々木自身はなんのためにブログを書いているのか?」 そして今のところ「よくわからない」という結論に至りました

同じ、というわけではありませんが、似た立場にいるので、私も同様のことを考えます。

例えば、ブログ。R-styleだったら毎日1時間ほど。文字にして2000文字の記事を書いています。

フラットに計算して、それが30日あれば、6万字。本一冊分の文字数に匹敵してきます。二ヶ月もあれば十分でしょう。

つまりブログの更新を止めれば、出版のスピードはあがり、結果的に私の収入アップにも結びつく、というわけです。
※一応ブログのアフィリはレンタルサーバー代ぐらいはペイできていますが、時給計算はしたくありません。

と、いうことを十分理解したうえで、「じゃあ、ブログを止めるのか」というと「否、断じて否」となっちゃうわけです。

なぜか?

簡単に言えば、自分がブロガーだからです。ブロガーとしてのセルフイメージが出来上がっているからです。もっといえば、アイデンティティの一部だからです。

ブログ以前:HTMLを自分で書いて、FTPでアップしてというスタイルの頃から日記的なものをウェブ上に上げていました。その頃は自分が物書きとして収入を得るなんて事は想像もしていませんでした。

単に、自分が書いた文章が他の人に読まれる(可能性がある)というのが面白かっただけ。その一点だけで、ずっと続けてきたような気がします。

もちろん、ブログを更新してきた中で得られたさまざまなメリットがあることは確かです。それは、おそらくブログという一つの「場所」をネット上に築くことでしか得られないものでしょう。

でも、それを初めから目指していたわけではありません。自分が楽しいと思う事をしていたら、結果的にたまたま得られたものだった、というだけです。

だから、そのようなメリットが無くなったとしても、私はあいもかわらずブログを更新していくでしょう。

結局何のためにブログを書いているのか?というと、書いていて楽しいから、更新を続ける事に(ささやかながらも)価値を感じているから、ということになります。この価値は、経済的価値には置き換えられません。プライスレス。

【書評】楽屋裏ver. 「モレスキン 人生を入れる61の使い方」

本館ではR-styleっぽくできるだけクールに書いてみましたが、読んでてワクワクしたのもたしかです。

モレスキン 人生を入れる61の使い方
モレスキン 人生を入れる61の使い方 堀 正岳 中牟田 洋子 高谷 宏記

ダイヤモンド社 2011-09-09
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やっぱり知っている人が本に載っているというのは単純に嬉しいですね。

@minny67さんとか、@sazanami_jpさんとか、@kosstyleさんとか、@sta7kaさんとか普段ツイッターやブログでやり取りされている方のノートを拝見できるというのは、単純にそれだけで面白かったです。

話はぐぐっとずれますけども、創造力やら創造性というものに置いて、「コミュニティー」が持つ力って結構大きいんですよね。簡単に言えば情報交換の場なんですけども、それ以上に自分たちの存在を認知しあえる「場」の存在は、あたらしいものを生み出すときに大きなバックアップになってくれるような気がします。

そういう意味で、いろいろな使い方を紹介しているネットの場が、書籍という一般の場に出てきたことで、また変化があるのかな、なんて思いました。

ちなみに、61のユースケースの中で、一番気になったのは「警察官」の方のノートの使い方です。単にハードボイルド好きなだけかもしれませんが、「刑事」さんのノートなんて普段はなかなか見れませんよね。

ヘミングウェイの文体のようにクールに完結に書かれたスケジュールと、奥さんからの「サラダ食べなきゃ」というメッセージが貼り込んだページの対比が良かったです。なんか書いててウルウルしてきました。

改めて、手帳やノートはいいな〜と思った次第です。