「No Border」という面白いブログがあります。一つのお題に複数のブロガーがエントリーを上げるというもの。
その
第5回のお題が「これからの日本を良くするために、ブロガーでこそ出来る事を提案してください。」でした。
これは、なかなか奥深い質問です。すくなくともちょっと考えてみたくなる質問です。
※回答エントリーは
この辺から見ることができます。
で、考えてみました。
こうした問題に取り組む第一歩は、定義をはっきりさせること。このお題の場合は、「これからの日本を良くする」とは、いったいどういうことを指すのか、を明確にしなければいけません。
安心して暮らせる国?誇れる国?美しい国?
抽象的すぎます。
誰しもが老後について思い悩むことがない国?失業率が3%以下?投票率が90%以上?人口が増え続ける?GDPが毎年5%の成長?
一体、どれが成し遂げられれば「良くなった」と言えるでしょうか。実際のところ、これが一番難しい問題です。
日常的にさまざま取り上げられている「問題」は表面的な問題でしかありません。一人の総理大臣を無能扱いして、首をすげ替えても状況がほとんど変わらないのと同じことです。問題は根深く、それをはっきり見据えることはできません。だから、解決方法も見えてきません。
そういう時には、手近な(あるいは安易な)解決方法にすがりたくなります。それも、「自分がまったく責任を負わなくてすむ」解決方法であればなおさら魅力的に見えます。
真剣にこの問題を論じれば、戦後の日本から高度経済成長、そして今の日本に至るまでの経緯に触れる必要がありそうです。つまり、1956年の経済白書に出てきた「もはや戦後ではない」を再検討する必要があるということです。実際のところ、あの戦争はまったく総括されていないというのが本当のところでしょう。そしてそのおかげで、戦前の日本と今の日本が断絶していると言っても良い状況を生んでいます。こんな状況で「市民国家」が機能するはずがありません。
日本国の主権は国民にあります。日本国憲法にそう規定されています。しかし、国の行方を左右しかねない国会議員の選挙における投票率は驚くほど低い状況です。2005年の9月11日に行われた郵政民営化が論点となったあの選挙。小泉元首相に注目が集まり、自民党は大きく議席を伸ばしました。その時の投票率ですら60%の後半。最近では50%になる選挙もあります。
1890年に行われた第一回総選挙では投票率は93.91%。この選挙における選挙権は税金を15円以上を納めている25歳以上の男性に限定されていました。いわゆる普通選挙ではないので、現状と対比してもあまり意味がないかもしれません。その後は80%後半から90%で推移しています。
それがはっきりと落ち始める傾向を見せるのが1946年に行われた第22回の総選挙。戦後に行われたはじめての総選挙です。この時は20歳以上の男女全てに投票権がありました。投票率は72.08%。今とほとんど同じ水準です。それ以降似た数字を繰り返しながら、徐々に投票率の平均値は下がっていっています。
これは急激に普通選挙に代わり、今まで投票に行ったことのない女性が投票権を得たことで、投票率が下がったという見方もできます。でも、なぜ女性が投票に行かなかったのでしょうか。別に投票に行かなかったのは女性だけではないでしょう。なぜ、その人達は投票にいなかったのでしょうか。あるいは、なぜ周りの人達はそういう人に投票言った方が良いと言わなかったのでしょうか。またはその人達の親は何かを言わなかったのでしょうか。
投票率の低下というのは、あくまで表面的な結果でしかありません。例えば、献血のように投票に行けばジュースがもらえるというような「特典」を付ければ、投票率は上がるかもしれません。あるいは、投票に行かないことに罰則規定を設けることでも良いでしょう。どちらにしても、単純に数字を改善することはできます。でも、本質的な部分はきっと変わらないでしょう。
ようは、この国はこの国の国民によって運営されていないのです。でも、憲法上はそうすることが定められています。ようはオーナー不在のお店と同じことです。そんな状況で、お店が効果的な数字を上げたとしたらもはや奇跡と言って良いでしょう。オーナーが不在であれば、店長はお店のお金を好き勝手にいじるかもしれません。従業員のモチベーションも上がらないでしょう。
そういう時に、その店長の首を変えても、あるいはスタッフを入れかえても、本質は変わりません。また別の店長が出てきてその人が好き勝手にやるようになるだけです。あるいは、新しく入ったスタッフもやがてモチベーションをさげていくことでしょう。なにせ責任を持つべき人、管理する人が不在なのですから、それは仕方のないことです。
もちろん、正確な意味においてオーナーが完璧に不在というわけではありません。一応50%の投票率は存在しています。でも、その50%も自身の判断に基づいた一票だったのかはきちんと考慮する必要があるでしょう。受け売り、あるいは組織的圧力の元で投下された一票ではなかったのか、きちんと考える必要があります。
もし「考えられ、託された一票」でなければ、責任がまっとうされているとは言えないでしょう。つまり、営業日の半分ぐらいに顔を出すオーナーが出す指示は、どこかの適当なセミナーで仕入れてきた付け焼き刃の指示だったとしたら、どうでしょうか、というのと同じ事です。それが主体的に運営されていると言えるでしょうか。
国際的な背景、この国の進む方向、金銭的問題、外国人労働者の問題、移民の問題。
政治家はそれぞれに対して何かしらの政策を打ち立てます。法律上の問題は、素人の私たちには扱えません。官僚に支持して回るほど暇でもありません。だから、それを専門とする政治家というのが存在するわけです。しかし、その政策が自分たちの国にとってどういう意味を持つのかを判断するのは国民です。その判断は主権を持つ存在としての義務です。
国民に主権があるということは、私たちは1億何千万分の1の「国王」ということです。国王は、大臣の話をウンウンと聞いていれば成立する立場ではありません。決断を下し、その責任を自分で引き受けなければなりません。何かを選択するためには、それができるだけの情報と判断力を持つ必要があります。
戦後、冷戦構造のおかげでぬくぬくと経済成長してこれたほとんどパラダイスとも呼べる日本において、本当に奇跡的に国民はそういうことを考えずにいることができました。立地に恵まれすぎて、オーナーが店に来なくても、店長が多少ちょろまかしても、スタッフが適当に仕事をしていても、オーナーの収入が発生していた、というのと同じ構造です。
でも、楽園はいつか幕と落とします。残されたのは、責任を持つ必要があるという自覚のないオーナーと、不正をやることが仕事になった店長と、士気が上がらないスタッフ、という状況です。本当に幸いなことに、そのスタッフの中にはベテランで技術が高い人が数人混じっています。だから、現状なんとなかっている状況です。でも、それも限界がやってくるでしょう。
「私たちが国からしてもらうことではなく、私たちが国に出来ることを考える」という言葉があります。でも、私たちが国なのです。国家というのは国民を含んで存在しています。それは排他的なものではなくて、同一の存在です。国家の中に、国民と政府というものが存在しているということです。それをわざわざ分けて考える必要はありません。
自分たちについて考えるということ、それが国について考えるということと同値です。
今、少しずつそうやって自分で頭を使って、何かを考えている人が増えてきていると思います。そうしなければならないのは、本当は当たり前の事です。もし、考えたくなければ、国民投票でもやって主権を別の所に移動させる必要があります。そうして、「お上」の言うことに絶対的に従っていたい、という人が日本の大半を占めているのならば、それはまあそれで仕方ありません。国民を含んでの国という存在なのですから、この国がそういう道行きを辿るならば、受け入れるしかないでしょう。
でも、「いや、ちょっとまて。そろそろ出勤するか」と思う人が増えていくならば、出てくる答えがなんであれ、それはこの国が「良い」方向に向かっていると言ってよいでしょう。
例えば、今から経済立国を再び目指す、でもよいでしょう。あるいは、一流国のテーブルから降りて、余計なことにはお金を使わず、経済の規模を縮小してでも、ぼちぼちやっていく道でもよいでしょう。あるいは、東アジアの連合を作る、という方向でもよいはずです。
どんな方向であれ、それが国民が自分の頭を使って、起きる結果にも責任を背負う覚悟で、出した判断であれば、この国はこの国の道を歩んだことになります。もともと国家なんて物は永続的な存在ではありません。たまたま、長く続いていて、それがあたかもエターナルなものであるかのように錯覚しているだけです。ですから、国家がなくなってしまうことすらも、実はそれほど大きな意味を持っていません。別の国と吸収合併されて、経済規模を維持するという選択ですら、ぜんぜん「あり」だと思います。
国家と国民とはフラクタルな構造を持っているので、同じ事は一人の人間についても言えます。どんな結末を迎えるのであれ、自分ので考えて、自分で出した結論に沿って歩けるかどうか、それが一番重要なことだと思います。逆に、その苦労から逃げ、場当たりの良い答えを他からもらい受けているだけでは、何一つ納得できる人生にはならないでしょう。おそらく、その人には強い閉塞感が生まれるはずです。答えを他人に求めているということは、イコール自分で事態を動かせないと認めているに等しいからです。
閉塞案は周りの環境によって生まれると思われがちです。でも実際は違います。自分で事態と向き合う事を避けたときから、その閉塞感は生まれてきます。「夜と霧」で提示されているようにアウシュビッツという極限的環境に置かれても、閉塞感にとらわれず希望を胸に抱き続けた人がいます。環境そのものではなく、それとどう向き合うか。配られたカードをじっくり長め、どう切っていくか。それを考えるのか、考えないのかの差でしかありません。
ということを考えたうえで、「これからの日本を良くするために、ブロガーでこそ出来る事を提案してください。」というお題に戻ります。
それはやはり、他人に答えを示すというのではなく、問題を提示し、それと自分が向き合う姿勢を他の人に示すということでしょう。決して安易に他の誰かの人の責任を声高に主張して、あざ笑い、時に罵倒するような姿勢を見せずに、自分自身の問題と自分がどう向き合うのか、どう考えればよいのか、どう判断すれば良いのか、というのを他の人に開示するというのがブロガーでこそできることではないかと思います。
残念ながら、これは義務教育では教えてもらえないことです。多くの親も教えてくれないでしょう。綴じ気味なSNSでこんなことを書いたら煙たがられるだけです。
でも、ブログならできます。もちろん、書くことで嫌な反応をもらう事があるかもしれません。でも、何かが伝わるかもしれません。
そこで伝わるものは、「この問題に対してはこういう解決方法が良くて、これは間違っている」という情報ではありません。僕はこう考えたけど、あなたはどう考える?という一つの問題提示です。それがなければ、結局根本的なレベルでは何もかわりません。答えをもらう人が専門家からブロガーに変わっただけです。
自分の頭で考え、自分の責任において判断を下す、というプロセスこそが、もっとも大切なことです。
なので、このような一つのお題に複数のブロガーが回答するというのは非常に面白い試みです。一つ一つの答えが相対化されるこで、「じゃあ、結局何が(自分にとって)正しいのか」を考えざるを得ないからです。そういう意味では、このNo Borderという取り組みは、一つのモデルになるかもしれません。
といったところで、このお題についてはここまでにしておきます。といっても、ここまで読んだ人はほとんどいないでしょうが。